堂々としていれば良い
2022年度は、仕事がとても忙しかったように感じる。特に去年の今頃から、様々なことが良くも悪くも一気にうごきだして、休む間もなく駆け抜けた感じ。いや、実際には休んではいたと思う。でもたぶん、休まる間はなかったのだと思う、心身ともに。
有給取得率100%を標榜する会社に勤めている。12月までほとんど使っていなければ、残り3ヶ月で20日取得できる。あるいはしなければならない。物事は捉えようだ。取得できる、権利があるというふうに思おう。(権利にあぐらをかくという意味ではない)おかげさまで家族との時間も増え、特に妻との会話、コミュニケーションが増えたと感じる。嬉しいし楽しい。
一方で限られた時間の中で仕事をしなければならない、ということでもある。
でも思う。自分にできることには限界がある。質も量も。これまで時間を投入して解決してきたけど、すべてを完璧にこなすのは、もはや不可能だ。その限界を感じる。これはもう、認めざるを得ない。認めて、受け入れる他ない。逃れられない現実だ。
さて、休みの話。PHTが休んでいても、世間は休んでいない。当然、求められることも。あるが、休みなのだ。休ませてほしい。休むことで、リフレッシュして、仕事の効率が上がればそれで社会に貢献できるではないか。そう、私が働くのは、社会に良い影響を与えたいからだ。つまりは、より良い世界になるよう、貢献したいのだ。だから、堂々としていれば良い。自分への自信、誇りを忘れずに、やりたいことに目を向けて。
安全圏から飛び出す
今の自分を変えたい。代わり映えしない自分がいる。しかしそれは、もっと成長したいということだと思う。
どうしたらよいのだろうか?これだけですべてが変わるとは思わないけれど、付き合う人を変えてみる。自分が成長していないということは、自分よりも優れた人と付き合っていないということではないか。だから、これからは自分よりもずっと優れた人たちと、背伸びしてでも付き合っていこうと思う。
人というのは、どうしても自分にとって楽な人間関係に浸っていく。しかしそこにい続けている以上、得るものはゼロではないにしろ、行き詰まっている今の自分を突破できない。安楽な考え方や習慣、センスが、あるポイントから先の自分の成長の邪魔をしてしまうのではないか。
自分を変えたければ、今の自分よりも優れた人たちから、新たな考え方や習慣を学び、たっぷり吸収するしかない。
勇気を出して、今の安全圏内から飛び出すこと。最初は孤独であっても、新しい人間関係が育っていけば、考え方だけでなく、時間の使い方やお金の使い方という習慣も変わり、自分がぐっと洗練されていくはず。
それまでの友達や知人との関係を切るみたいで薄情者のようだが、そうではない。ここだけに留まってはいけないのだと思う。
常に自分が一番下である人間関係こそが、自分を大きく成長させてくれると信じている。
あいさつ上手な人でありたい
や、もうタイトルのまんまなんです(笑)
目を見て、挨拶。「おはようございます。」
はっきりと、丁寧に挨拶。「こんにちは。」
自然な笑顔で、挨拶。「ありがとうございます。」
そんなことが、当たりまえにできるような人でありたい。
この週末、ふとしたきっかけで尾道に行ってきました。ひとり旅。
あてもなく、ふらふら歩いて入ったお店、ホテル、美術館。すれ違った女性。
みなさん、挨拶してくれて。
歓迎されているのが伝わってきて、長くいたくなりました。すごく、歓迎されていることを感じられたんですね。それだけで、楽しくならないわけがないですよね。
あいさつをすること、すごく価値のあることだと気づきました。
自分のやりたいサッカーをするのがいちばん
私の悪癖なのですが、ついつい、YouTubeを目的もなくだらだら観てしまいがちです。
先日もそんなことをしていると、中田英寿(ヒデ)さんのチャンネルに出会いました。
1998年フランスワールドカップ後、イタリアに移籍し、そこからのキャリアを、各チームを訪れて振り返る、という番組でした。
中田英寿「20年目の旅」#1 | ペルージャ | Hidetoshi Nakata “20 years after” #1 | Perugia | - YouTube
ヒデさんが最初に移籍したのは、ペルージャという田舎のチーム。日本からの海外移籍は当時は珍しく、周囲からは「商業目的」のように見られることもあり、パスが回ってこない状況が最初はあったようです。そのような中、自分が点をとって結果を残すことで、試合に出続けられ、結果を出し続け、徐々に自分のチームにしていった、というエピソードを語っておられました。そしてペルージャというチームへの愛、思い入れ、感謝の気持ちも持っておられました。
その後、2年目のシーズン途中でローマに移籍をすることになるのですが、1月末に市場が閉まる直前まで、本当にギリギリまで移籍するかどうか悩んだそうです。
当時のオーナー、ガウチ会長が移籍金を釣り上げてペルージャから移籍しづらくなることになるかもしれない、という危機感。
シーズン途中で、負けが込んでいる時期に、中心である自分が出てしまって良いのか、という責任感。「裏切りでしかない」と思いながら、「辛い」移籍を決断しました。
当時のローマというチームには、絶対的エース、ローマの王子様ことフランチェスコ・トッティ選手がいました。彼がいる中で、同じポジションである自身が出場できる可能性があるのか、これも悩んだそうです。
活躍できるかわからない。それでも自分よりレベルが高い環境でチャレンジすることを選んだヒデさん。
ローマの次に移籍したパルマの地で語っていたこと。それは、
「自分にとって大事なのは、ビッグクラブに入ることでもない。優勝することでもない。自分のやりたいサッカーをすることなんだ。」
そのために、自分らしいプレー、自分がやりたいプレーをするために、環境を選んだのだそうです。
自分が出ていってしまって良いのか?裏切りではないか、という中心選手としての責任感。
自分のやりたいことは何か。原点に立ち返って決断を下したその思い。
今の自分とはまったく別次元の環境ですが、それでもこの2つ、見ていてとても心動かされる内容でした。
叱ってくれる人がいますか
30代も半ば、いい大人になったいま、叱られることってなかなか少なくなってきているなあ、と感じています。
たとえば仕事において。
10年近くキャリアを積むと、自分でできることは増えていて、守備範囲もかなり広がってきていると感じています。すこし乱暴に聞こえるかもしれませんが、そんな私に対して、頭ごなしに叱ってくる人はめったにいないし、何か意見があっても建設的な議論に終始します。
もちろんわからないこと、知らないことはあるのですが、教えてくれる人はいても、叱る人はいない。
一方で、後輩や新しく入ってきた方たちに対して、周りに対するリスペクトが欠ける行為があった場合、それが繰り返される場合、時として叱る側に立たなければならないことが増えてきました。
またたとえば家庭において。
妻にせよ、子供にせよ、彼女たちに注意されることはあっても、叱られることはないなあ。たとえば脱ぎっぱなしの靴下を、「洗濯機に入れておいてね」と注意されることはあっても、「どうして洗濯機に入れないの!」と叱る(怒る)ことはない。まあ、性格的なことはあるかもですが。。。
一方で、子どもが危ない行為をしていたとき。たとえば歯ブラシをくわえたまま走り回る、とか。何度注意しても同じことを繰り返すときは、叱ります。家でも、叱る側に立っていることが多いのです。
つまり、自分で「これはよくないな」「相手にとって失礼かな?」と思う感度は、これまで以上に強く持っておく必要があると感じています。自分を律する必要がある。他人任せにできない。それは、礼儀作法でもあり、コミュニケーションにおいて大切なことではないでしょうか。
恥ずかしながら、先日祖母のもとへ行く機会があったのですが、日々の仕事で忙殺されていて、手土産を準備する余裕がなく、手ぶらで行ったんですね。すると今朝、母から久しぶりに叱られまして。本当に恥ずかしいのですが、「それ(てぶら)はないやろ」と。その時に言ってよとも思ったのですが、母なりに気を遣ってくれたのだろうなとも思いつつ。自分自身もどこか後ろめたい気持ちがあったので、言ってくれて改めて「失礼だったな」と気づき、素直に受け止めることができました。
振り返ると、ずいぶん久しぶりに叱られたなあ、なんて思って。
叱られることは、気付きを得られるチャンスでもあるなと、母から久しぶりに叱られて気が付きました。良い気づきをありがとう、おかあさん。
家族と一緒に海外へ
行くとしたら、妻目線の楽しみって何なんだろう?
今度聞いてみようと思った話。
というのも、完全に妄想なのですが、家族と一緒に海外に移住したらどうだろうか?なんていうことを考えていて。
家族それぞれの目線で、楽しみなことと心配なこと、を想像してました。
<こども目線>
●楽しみ
1)英語の環境で過ごす。教育を受ける。
2)違う文化、多様性を肌で感じられる。
3)海外の友達ができる(かもしれない)
4)世界へのハードルが下がる。
●心配
1)なじめるのか?
2)他とちがうということが本人にとって良いと思えるか?
<自身>
●楽しみ
1)やったことないことにチャレンジできる。
2)語学力、経験値が上げるチャンス。
3)人脈、マーケットなど世界を広げるチャンス。
●心配
1)何で生計を立てるのか?
2)何の仕事をするのか?
3)なじめるのか?(気候、におい、文化、食事・・・)
子供目線も実質、自分目線では・・・?と思ったり。
これだけだと、全然、解像度が低いなと思うので、もっと解像度高くしたいと思うのですが、そう、妻のことなのです。
妻目線の「楽しみ」って?何?
個人的には、自分が養うからついてこい!とも思ってないし、そこはもちろんイーブンに、お互いのやりたい仕事をしていきたいと思うのですが。
こんな想像力低めな妄想で、果たして海外に出ていけるのかしら。。
Coda コーダ あいのうた
7月も間もなく終わる本日は、7月31日(日)。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
今年のアカデミーで作品賞を受賞した、「Coda コーダ あいのうた」を観ました。
Coda :Children of Deaf Adults 耳の聞こえない両親に育てられた子供、という意味になります。
耳の聞こえない父、母、兄と暮らす高校生の女の子、ルビー。
家族の中で唯一耳の聴こえる彼女は、ろう者の家族の「通訳」としての役割を担っていました。父・兄の漁師の仕事も毎朝3時に起きて手伝うルビー。
ある日学校で合唱部に入り、そこで顧問の先生に才能を見出されます。ルビー自身も「歌が好き」だと気づきます。顧問の先生 Mr. V の奨めもあり、音楽大学への進学を志すように。
ですが家族のもとを離れるということは、「通訳」としての役割を捨てるということ。家族たちからの希望(反対)もあり、葛藤、悩み、進学を諦めることに決めました。
秋の合唱コンサートが開かれた夜。家族みんなでコンサートから帰ってきた後、父と2人、ルビーは耳の聴こえない父のために歌を歌います。そこで父は、「ルビーに音楽大学を受験させよう」と決め、受験会場まで送り出します。
受験会場で歌うルビーは、こっそり聴きに来た家族がわかるように、手話をのせて歌を届けます。
という話。
秋の合唱コンサートで、耳が聞こえない家族たちがルビーの歌を聴くシーンの演出。ぐっと見入りました。耳が聞こえない世界とは、かくたるものか。
そしてこの話では、家族の愛が深い。とても深い。
兄は、妹が家族の犠牲になってほしくないという思いから、妹に家を出ていくことを強く後押し。母は、ルビーに近くにいてほしい気持ちがあるのに、最後は送り出してあげる。そして何より父の愛が深い。受験前夜にルビーに歌ってくれと頼み、耳じゃなく、手で、心で、聴こうとする父。そして娘のやりたいことを応援しようと行動するその姿。
何気に、顧問の先生Mr. Vもいい味出してるんですよね。受験会場で伴奏を買って出たり、良い所で弾き間違えたり。最後、合格の喜びをルビーと共有するシーンは、観てて師匠の愛を感じたなあ。
というわけで、心あたたまる、愛をたくさん感じられる映画でした。