ドリカムのサンキュ.

この週末、ラジオから流れてきた。

 

大学入学して、初めてできた友達、の友達。

同じ学部ということもあり、グループで仲良くなって。ランチとかちょくちょく一緒にいくようになって。


ある日。

その子が元気なく、ふとカラオケ行きたいと言い出して。

友達と3人で大学の近くのカラオケ行って。

彼女が歌ったのがドリカムのサンキュ.。

 


何も聞かずに付き合ってくれてサンキュ


今日彼にさよならしたんだ

泣かなかったし責めなかった

 


1番だけ歌って演奏中止のボタンを押した彼女。


そもそも歌にそんなに詳しくなかったので、この歌を初めて聞いたが、ただいい歌だなぁ〜なんて思った。

一番でやめちゃうの、もったいないな。単にフルバージョン歌うのめんどくさいのかなとか思ってた。


でもそのあと少ししてから、そういえば最近、気になってると言ってたあの子のこと、話題に上らないなと気づいた。

そうか。失恋したのか。ようやく気づいた。時差があった。チャリで20分くらいの距離に住んでたけど、1ヶ月くらいかかった。

 

そうか。彼女なりのありがとうがこもってたのか。

歌で伝えようとしてくれてたのか。

 

全然思いを受け取ってあげられていなかった自分の鈍さに笑けた。

そんな愚鈍な自分を思い出した。

 

何でこんな些細なこと思い出すんだろう。

15年も前なのに鮮明に思い出せる。

その時は大して何も感じなかったというのに。

 

 


あいつ今も元気でやってるのかな。

 

 

 

できないことに寄り添う

子供のことで悩むとき。たとえば排泄。おしっこやうんちを極限までガマンしてしまう。たとえば服。なぜか前後反対にシャツを着てしまう。見守ろうと心がけているものの、自分に余裕がない時などはついついこちらも我慢できずに怒り口調で接してしまうこともあります。

 


先日絵本作家のヨシタケシンスケさんが書かれていた本の中に、こんな言葉がありました。

「相手の『できないこと』に寄り添うことの難しさ。人の悩みとはつまりそういうことなのではなかろうか。」

まさにそうなんだと思います。

できない姿をそばで見ていて、もどかしいからついつい手伝おうとしてしまいます。でも、その「できない」にもそばで寄り添える存在でありたいのです。

 


成功体験ももちろん大切だとは思いますが、失敗体験、実際に自分でやってみてうまくいかなかったことを子どもが経験することも大切にしたいです。子どもから失敗するチャンスを奪わないようにしたいのです。なので、思い通りにならない子供の姿を見守ろうと思いながら、寄り添う努力はしつつも、つい我慢できず思い通りにならない自分もまた、たいへんだなぁと日々感じています。 

親時代の黄金期

親時代の黄金期っていつなのでしょうか。

 

腹が減ってつまみ食いしている子ども。極寒の中砂場で遊び続ける子ども。一緒にいると自分のペースで過ごせません。私の場合、こんな日が続くと3日目には心の余裕残高がゼロになります。

 


先日、職場の先輩と話をしているときのこと。昨年まで息子さんの野球の送り迎えだなんだで、単身赴任なのに毎週末自宅に帰っては、日焼けしてまた大阪で仕事する、というような日々を過ごしていました。が、そんな息子さんも中学生になり部活やゲーム(あつ森)で忙しくされているようで、コロナもあって今ではすっかり子どもと過ごす時間が減ったそうです。

 


一方で私。コロナで在宅勤務が中心となり、自身の考え方の変化もあり、家族と過ごす時間がこの1年増えました。休める時は休みをとって、子どもたちと公園に行くことも増えました。

それまでは恥ずかしながら平日は仕事ばかり、週末限定の親業でしたので、1週間ぶりに子どもと過ごすと、子どもが立ったり話したりできるようになっていて、子どもって一気に大きくなるんだなーと、のんきに思っていました。

が、平日にもそうやって子どもと過ごす時間があると、できなかったことができるようになるまでの、「できそうになる」瞬間に立ち会えることがあり、これまで以上に成長を感じたりもします。

たとえば、ジャングルジムにトライして2段くらい登れるようになったり。前まで怖がっていた滑り台にチャレンジしようとする姿。鬼滅の刃やアナ雪のキャラクターの名前を連呼する姿。きっと幼稚園で、お友達が遊んでいるのを見て、自分もやりたかったんだなーと、色々想像しながら微笑ましく感じています。

 


で、冒頭の先輩の話を聞いて、子どもがいずれ自立して離れていくんだという当たり前のことに、気付かされました。

 

そうか。こんな微笑ましいシーンがいつまでも続くわけがないんですね。

だとしたら自分の親時代の黄金期はいつなのか。まさに今ではないか。

長くてもあと10年もしたら、会話も減りきっと父の肩身は狭くなるばかり…。と想像したらとても寂しくなったので、心の余裕が無くなった時は、自分の親としての黄金期は今なんだと思い出しながら、今の子供の成長を楽しみに見守りたいです。

長男のうんち

長男(3歳)、2日ぶりのうんち。

クリスマス前からここ最近までずっと毎日出てたので、これで魔のトイレトレーニングともおさらばか!と思っていたが、また怖がっている。

 

おちんちんをすごく気にしてる。おちんちんからうんちが出ると思っているのだろうか。

 

いつもきばるときに手を握って欲しがるので、便器の前に座って手を握るのだが、今日はあまりの怖がりようにおもわずぎゅっと抱きしめた。少し落ち着いただろうか。元気な大きいうんちが出た。

 

昨夜寝ている時からぐずぐずしていたし、今日は一日中抱っこやおんぶをせがんできて、疲れた。

 

でも、これまで3週間毎日してきたこと、改めて振り返ってみて、彼なりに頑張ってたんだなと思った。

これまでいちいち時間がかかってたけど、それを待てる自分でありたいし、これからも見守っていられる存在でい続けたい。

 

 

 

2021年今年の漢字を考える

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

突然ですが、今年の漢字を一文字決めました。それは・・・

 

「描」

 

です。

「描く」:えがく、かく

という意味の方です。

猫ではありません。念のため。←しつこい

 

ビジョンを描く

夢を描く

理想を描く

キャリアパスを描く

次のアクション、場所を夢見る(描く)

 

そんなことができたと思えたらいいなと、思っています。

 

2020年は自分の中で価値観が変わり、そのことに向き合う時間が増えた1年でした。

育休を経て、復帰した途端にコロナで環境が激変・・・。

その中で家族との時間を大切にしたいなと改めて感じ、

時間の使い方に対する意識が変わったな、と振り返って思います。

行動が理想に近づくのはまだまだ先、発展途上の感はありますが、

その分成長の伸びしろがまだある、と前向きに捉えて、思い描くような時間の使い方をしようと思います。

 

そして2021年。未来のビジョンを描く1年にしたいなと思っております。

家族、仕事、なりたい自分・・・いろいろな未来のビジョンを描く。

 

そのためには自分の心に素直になって、

嬉しい

楽しい

大好き

悲しい

きらい

をそのまま受け止める。

あとは興味を持っていろんなことをやってみる。

やりたいことやる。

 

やることはいつのときも、案外変わらないのかもしれません。

今年もいいことたくさんありますように。

万能感について考えてみる

先日会社の後輩(入社2年目)がいま、チームの中でもかなり重要な顧客を任されているだけでなく、その他にも多くの仕事を抱え、仕事が回っていない日がここのところしばらく続いていました。

そしてあることがきっかけで、2人でいろいろと話す機会があったのですが、こんなことを言っていました。

 

「私、よくばりなんだとおもいます。あれもこれもやりたい気持ちが強いんです。だけど仕事のスピードもまだまだ遅いので、仕事がまわらなくなって、周りにご迷惑をおかけしているのだとおもいます」

 

私が所属する会社では、働く上で現在、様々な制約があります。休業日の一定数取得や、残業ができないなど、働きたくても思ったように働けないという環境です。そんな中で、周りの先輩や同期はうまくやっている(ように見える)のに、自分はうまくできていない、と思っているとのことでした。

 

このとき、私自身が思ったのは、自分にもこんな時があったな〜ということです。

 

私も新卒で今の会社に入社して以来、3年くらいはずーっと、自身の持てる時間をとことんインプットして、任された仕事はすべて完璧に仕上げてやるんだ!と思ってました。が、もちろん途中で力尽き、仕事を抱え込みすぎて結局周り(上司や同僚)に迷惑をかけて、「あいつぜんぜん仕事デキないヤツ」と思われるような存在でした。

そしてこともあろうか、何を勘違いしていたのか、今でも恥ずかしく思っているのですが、自分が仕事できない(結果を出せない)ことを、周りのせいにしていたんですね。つまり、「誰も助けてくれないこの環境が悪いんだ。」「何も教えてくれない上司が悪いんだ。」「いい人に巡り会えなかった自分がかわいそうなんだ。」というように、思ってたんです。

素直に「できません」とも言えず、周りに頼ることができていなかったんだ、と今振り返ると思えますが、当時は「できない自分」を正面から受け入れられなかったんですね。このときの自分は、「自分はやればできる。本気出せば大丈夫だ」という、必要以上に強い「自己肯定感」、というよりむしろ、強い「万能感」に囚われてたんだなあ、と思い出しました。

 

皆さんには、「万能感」を持っていた時期はありましたでしょうか?

私は上述の通り、根拠のない「万能感」で仕事をして散々失敗していました。

多かれ少なかれ、若い時にはこの「万能感」がある方が多いのではないかなーと思い、この文章を書いています。

 

この「万能感」というのは、調べてみると、

自分が願ったことは何でも叶うという思い込み

のことを言うそうです。

そしてこれを乗り越えるためには、

・〜ねばならない思考をみつけること

・瞑想

が効果的、と言われているようです。

 

この「万能感」は、自己肯定感をバランスよく持っていれば、悪くない存在だと思うのですが、冒頭の後輩のように、自分自身の首を締めることにも繋がりかねないと思います。

ここからは個人的な意見にはなりますが、これを乗り越えるために大事なことは、2つあると思います。

 

1.トレードオフで考える

リソースには限りがありますよね。お金、人脈、時間・・・。

たとえば、「17時から2時間、会社で残業をする」のと、「18時に家族と夕飯を一緒に食べる」というのは、同時に手に入れられないですよね。どちらかひとつしか選べない方がほとんどかと思います。

「仕事をがむしゃらにがんばりたい」という思いと「家族との時間を十分に持ちたい」という思いは、どこかで折り合いをつけなければならないわけですね。

「同期と旅行に行きたい」けど、「自分の勉強に投資もしたい」場合、両方手に入れようと思えば、お金も時間も膨大に必要となり、手に入れられたとしても、その分のお金や睡眠時間を日常生活においては相当抑える必要が出てくる、ということも想像できます。

要は、「あれもこれも」と考えていても、両方手に入れられないことだってある、ということ。

すなわち、限られたリソースの中で、何を選び何を諦めるのか、に向き合う必要があると思います。それはつまり、自分にとって何が一番手に入れたいものなのか?と向き合うことにもつながります。

 

2.生産性を重視する

インプットできる時間やお金などのリソースに限りがあるなら、その中でいかにアウトプットの質や量を高められるか、が大切になってきます。

つまり、生産性を上げられるかどうか、という意識が大事になってきます。

リソースが限られているということはつまり、1人だけでできることには限りがある(=1人だけではできないことがある)ということを、受け入れる(諦める)ことが必要です。

その上で、アウトプット(成果)を高めるためには、人に頼ることが重要になってきますし、どうすればその人達の助けを得られるのだろうか、と考え行動することも大事です。

自分で考えてやってみる→結果はどうあれそこで気づきを得る→改善してやりなおす→気づきを得る・・・ということを繰り返すうちに、同じインプットだとしてもアウトプットを高められるようになる=生産性が上がっている状態に、なるのではないかと思います。

 

少し話はそれますが、稲盛和夫さんが著書の中で、

「成果=方向性×能力×熱意」

ということをご紹介されていました。

この中で一番大事なのは、「方向性」だと考えます。

能力や熱意(やる気)は、0〜100だとしても、方向性は−100〜+100まであるからです。

能力、やる気満々でも間違った方向に向かってその力を使ってしまったら、成果はあらぬ方向に出てしまいます。

つまり、どこを向いて働くのか?が自分の判断軸に影響を与えるのであり、それが自身の行動につながるのだと思います。

 

「万能感」は言い過ぎかもしれませんが、「よくばり」を乗り越えるには、とトレードオフと生産性の2つの意識が役立つのではないかと思いました。

 

おしまい

 

 

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自分にとっての「父性」とは何か?

先日、『母にできること、父にしかできないこと』(藤原和博著)を読み、考えさせられることがありました。

 

「父性」って何?

ということを、今日は考えてみたいと思います。

 

●辞書的な意味

「父性」=父としてもつ性質。(広辞苑

 

藤原和博さんにとっての父性

「私にとっての『父性』とは、まず自分がどんな呪縛を受けてきたか、に気づいた上で、子供をそれから逃がしてやることではないかと思えたのだ。」(151ページ)

「父とは、自分たちの父親のマネをして子どもに常識を押し付ける性ではなく、子供たちとともに常識を覆していくほうの性なのではないか。」

「常識と思われているものに『なんか、変だなあ』を投げつけてしまうことによってこそ、父となりうるのではないか」(いずれも237ページ)

 

●私にとっての父性

自分にしかできないことって何なんだろう?

ざーっと思いつくまま書き出してみました。

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・自分の常識で縛りつけない

・子供の「何で?」を大切にする。一緒に考える。

・一緒に笑い、泣き、怒り、楽しむ。

・無理して大きく見せる必要はない。

・社会との関わり方を背中で(行動で)示す

・じっと見守る

・働くことの楽しさを伝える、態度で示す

・人から頼りにされることの幸せを感じる

・学ぶことの楽しさを伝える、行動で示す

・体を動かすことの楽しさを伝える

・人に与えることの喜びを、行動で示す

・親を大切にする姿勢を見せる

・言葉遣い、相手の立場に立って考える

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正直、自分じゃなきゃできないこと(妻だとできない、かつ、自分ができる)ってほとんどない…。

強いて言うなら、社会との関わり方や働くことの楽しさ、みたいなものを伝えることなのかな、と思いました。

すごい無力感。むなしい。

 

でもね。そんな自分でもやっぱり子どもたちにとって唯一の父親なわけで。少しでも良くなりたいんです。何かしら足掻き続けたいのです。

 

そんなこと考えてると。

そういえば子供って、ほんとによく見てますよね、親のこと。言葉遣いや態度、ちょっとした仕草。

足で衣裳ケースを閉めたり、ドア開けっぱなしにしたり…恥ずかしい。子供は自分の鏡だって聞きますけど、ほんとそう思います。

 

なので、子どもが見ている、子どもから見られていると言う前提に立つと、父である自分は、「行動で示す」他ないな、と気付きました。

 

自らが動いて見せる。

動くときは、「今からやろうとしていることは、子どもの前でも胸張ってできるか?」と自問する。

 

じゃあ何を見せるのか?

学ぶこと、自分の頭を使って(周りに流されずに)考えること、言葉や態度で表現すること

体を動かすことの楽しさ

人から必要とされることの喜び

親を大切にする

社会の中での立ち居振る舞い(子どもの社会といえば、今のところ幼稚園とか公園とか) 

そんなことなのかなー。

すごく初歩的というか、真新しいことは無いなー、基本的なことだなー、と、いま少し不満に思ってます。

 

でも結局は、基本的なことが本質なのかな、と。

父親始めてまだ数年の私です。今はしっかり父親としての土台を作ろうと思います。

 

家族みんな寝静まったから酒でも買ってとことん飲むかな(おいおい)