「退屈」=悪?「ムダ」=ダメ?

先日、旅に出ている道中に読んだ本があります。

それは、『モモ』(ミヒャエル・エンデ著)です。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A2%E3%83%A2-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%96%87%E5%BA%AB-127-%E3%83%9F%E3%83%92%E3%83%A3%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87/dp/4001141272

 

児童文学なので、子どもも読めるような物語なのですが、

私はこの話が好きで、おとなになった今でも時々読んでいます。

そこで感じたのが、「退屈」や「ムダ」というものはとてもネガティブな文脈の中で語られることが多いが、果たして本当にネガティブなのか?ということです。

 

本の裏表紙に書かれてある物語のあらすじは、次のようなものでした。

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町外れの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。

町の人達はモモに話を聞いてもらうと、幸福な気持ちになるのでした。

そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります・・・。

「時間」とは何かを問う、エンデの名作。

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もう少し詳しい内容が知りたいという方は、下記もよろしければご参考にしてください。

ミヒャエル・エンデ『モモ』あらすじと魅力|時間どろぼうの世界とは? - ブックオフオンラインコラム

 

さて、この物語の中で、時間どろぼうに騙され自分の時間をどんどん奪われていった人間たちは、日常に「効率」を求め、「ムダ」を嫌い、せかせか、こせこせするようになります。

 

マイスター・ホラがモモに向かって言った言葉があります。

 

「人間には、時間を感じとるために心というものがある。」(p.236)

 

時間というのは、心で感じるものなのですね。

最近この「感じる」力が、弱くなっているのかもしれない、と思うようになりました。

なぜなら、「心で感じる時間」の逆が、「誰かに管理されている時間」だと思うからです。つまり、社会に出てから、そうやって自分の時間を「誰か」自分以外の存在に、委ねてきてしまったのではないか、と思うのです。

 

 

会社で働いていると、周りを見渡せばなんでもかんでも成長志向がつきまといます。

任される予算はどんどん大きくなり、責任は年々重くなる。

時には無理難題なことを社内外から言われ、その課題を乗り越えるために文字通り無理をすることだってゼロではありません。

 

その時、自分自身にウソをついてきてはいなかっただろうか?

誠実さや正直さといった、本当に大事にしたいと思っているものと引き換えに、

目の前の成果を選び取ろうとしてきてはいないだろうか?

心が死んでいってはいないだろうか?

 

右肩上がりの成長だけを追い求め続けたとして、その先に何があるのか?

自分はどこに向かっているのか?

成長志向は正義なのだろうか?当たり前なのだろうか?

目まぐるしく過ぎていく時間の流れに身を委ねてしまっているだけで、いいのだろうか?

 

そんな問いが、この本を読んで思い浮かびました。

 

そんなときに、ツイッターでネットフリックスが、

#退屈は犯罪です 

というハッシュタグ企画を立てていました。

退屈している時間に、ネットフリックスを見ようぜ!ということなのでしょうか。

退屈を遠ざけて、観たいもの見ようぜ!と。

 

ネットフリックスを観る事自体の是非については、人それぞれの考えかと思いますが、

しかし果たして本当に「退屈は犯罪」なのでしょうか?

 

忙しい現代社会においては、とかく「退屈」や「ムダ」といったものは、悪役にされがちです。

 

移動中にメール1本、レポート1件、クライアントに電話、いずれも5分あればできます。

時間をムダにするな!という考えから、そうしているわけなんですね。

でもその5分、ボーっとしている中で目に止まった広告から、何か着想が生まれたりするかもしれない。

 

仕事中は、余計なことは話さずに眼の前の仕事に集中して取り組む。

でも、ムダとされる「雑談」からは、新たな気づきを得られ、また安心感や自己肯定感につながるのではないでしょうか。

 

やることがなく家でひとり退屈している。

でも退屈している時間があるからこそ、やりたいことが見つかったときの喜びが大きくなることはないでしょうか。

 

心に「栄養」を注ごう。

ワクワク・ドキドキすることを、しよう。

それが何だったか?子供のころを思い出そう。今の自分に向きあおう。

「生きてるなー!」という実感や感動。

「嬉しい!」と思うこと。

すごい!最高!素敵!に出会う。

そのためには、退屈する時間だって、ムダな時間だって、いると思うんですよね。

鬱々と、ムラムラと、やり場のないエネルギーを抱えていた中高生のときの、あの退屈感!

ムダに高すぎた自意識!

といったものがあったからこそ、今があるわけで。

ダラダラ、無目的に過ごすことが良いとは思いません。

ですが時には力を抜いて、あえて何もしないということを自分で選択してみるのはどうでしょうか?

 

と、ダラダラ家から一歩も出ずに過ごす3連休の中日に、クーラーのよく効いた部屋で、書いております。笑

 

成長志向ももちろん良いと思いますが、それ一択だとすこし息苦しさを私は感じてしまいます。

脱成長志向、幸福志向、正直志向、誠実志向・・・うまくハマる言葉がまだ見つからないのですが、見つけたいです。