映画『偶然と想像』濱口竜介監督を観て

『ドライブ・マイ・カー』第94回アカデミー賞国際長編映画賞受賞おめでとうございます。

 

同作の監督をされた、濱口竜介監督の作品『偶然と想像』を観てきました。

 

タイトルに込められた意味って何なんだろう?とか、よく考えるんですけどわからないんですよね笑

 

今回の作品は3部の短編物語がそれぞれ独立した形で流れていって。

救われない偶然もあれば、偶然に救われることもあるし、

新たな偶然が、新たな道を切り拓いてくれることもある。

そんなことを感じました。

 

濱口竜介さんの作品は、これが2作目なのですが、2作を観て感じたのは、

自分のことは自分が一番わかっている(理解できている)

ではなくて、

自分が一番わかっていない(理解できていない)のが、自分である

ということを、ものすごく考えさせられるんですよね。

 

ドライブ・マイ・カーのときにも感じたけど、ずーっと(20分くらい?)同じシーンで互いがセリフをぶつけ合うシーンがあって。

今回の作品でも、たとえば第2部なら教室の中での朗読のシーン。

 

1人が問いかけて、1人が内省し何かに気付き、っていうやり取りを濃密に繰り返すなかで、自分が目を背けていた自分自身の中に、いやでも向き合わざるを得ない。

そんな2人のシーンは、観ていて本当に目が、耳が、意識が、離せない。そんな感覚になりました。

 

自身の日常に置き換えてみると、自分といやでも向き合わざるを得ないときって、何気なく暮らしている限りなかなか無いと思うんですね。

忙しくて考える余裕がない

とか、

ストレスを発散したくて振り返りなんてしていられない

みたいな感じで、そう、余裕がない。コップに水が一杯入っていて、今にも溢れんばかりな日々を過ごし続けている。

むしろ余裕がないときは、それを覆い隠すように、何かを手に入れて埋め合わせをしたい(服、本、知識、酒、食べ物、、、、)という癖が自分にはあるなと最近気づいて。

 

えげつないほど自分と向き合わざるをえない経験。

すごく宗教的ですね。

 

だからなのかはまったくわかりませんが、この作品も、どこか宗教的というか、哲学的というか、「あなたは自分のこと、本当によくわかってますか?」という問いかけをもらったように感じました。

 

余裕のない日々に疑問を持ち、育休を取得して、すこし仕事と距離を置いて。

復帰してコロナが来て、時間ができて。このくらいの余裕があったほうが自分にはいいなと思って。

いろいろ周りの環境が変わって、なんとなく責任も大きくなってきたような気がしてて、それはそれでやりがいを感じてはいるんだけど、今の延長線上の自分をあまり好ましく思っていなくて。

その中で自分の「好き」とか「やりたい」を大切にしたり、あるいは「きらい」「やりたくない」「いやだ」みたいな感情も受け止めてあげたり。

そういった「自分」たちにアンテナを高く張っておく。そこから始めるのも、自分をよく理解するためには良いのかな、と思いました。

 

劇場で映画を観るのって、すごく贅沢。

大きなスクリーンと、音量の大きなスピーカー、暗い空間。

この体験を、その場にいた人たちとだけ共有する、って何かいい感じ。

桜も見に行きたいけど、本も読みたいけど。

 

いやぁ、映画って本当にいいもんですね~←水野晴郎